思い出の旅 秋
ポイント | 歴 史 | 鑑 賞 |
東福寺 臨済宗 大本山 「京で一番大きな寺を」と、関白・九条道家が 19年の歳月をかけて建立した巨大寺院。 ★写真 通天橋 東福寺の本堂と開山堂に挟まれた渓谷「洗 玉澗(せんぎょくかん)」に架けられた橋廊。 ここから眺める黄金色の「天通紅葉」が彩る 渓谷の美しさは 、まさに圧巻のひとこと |
摂政九条道家が奈良に於ける最大の寺院 である東大寺に比 べ又、奈良で最も盛大 を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、 京都最大の大伽藍(ガラン)を造営したの が慧日山(エニチ)東福寺である。 それは嘉禎2年(1236)より建長7年(1255) まで実に19年を費やして完成したのである。 工事半ばの、寛元元年(1243)には聖一国師 を開山に仰ぎ、先ず天台・真言・禅の各宗 兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319) 建武元年(1334)延元元年((1336)と相次ぐ 火災の為に大部分を焼失した。貞和3年 (1347)6月には前関白一条経通により仏殿 の上棟が行われ、延元の火災以後実に20余 年を経て再び偉観を誇ることとなった。 建武被災の直前には既に京都五山の中に 列せられていたから、再建後の東福寺は 完全な禅宗寺院としての寺観を整えること となった。 仏殿本尊の釈迦仏像は15米、左右の観音・ 弥勒両菩薩は7.5米で、新大仏寺の名で喧伝 され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによ って保護修理も加えられ、東福寺は永く京都 最大の禅苑としての面目を伝えたが、惜しく も明治14年12月に仏殿・法堂(ハットウ)・ 方丈・庫裏(クリ)を焼失した。 その後大正6年より本堂(仏殿兼法堂)の再 に着工、昭和9年4月に落成、明治23年に 方丈、同43年に庫裏も再建され、鎌倉・室町 時代からの重要な古建築物に伍して、現代 木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している のである。 しかも開山国師・画聖兆殿司( デンシ)を 中心とする鎌倉・室町期の国宝・重要文化財 は夥しい数にのぼる。 |
「京都で一番大きいお寺」 確かに広い・・・・・・ 通天閣からの眺めは 本当にすばらしかった。 観光客もピークどこも 人、人、人でした。 ![]() |
永観堂 禅林寺 (浄土宗) 平安初期に創建された、「もみじの永観堂」 で知られる、洛東では随一の紅葉名所であ る。もともと平安時代初期の文人・藤原関雄 の閑居があった場所で、当時から紅葉名所 として評判も高かった。 本堂に安置されている阿弥陀如来立像も必 見。室町時代の作、「京都六阿弥陀仏」の一 つに数えられる名作。後ろに首を振り向けて いる「見返 り阿弥陀」の愛称で親しまれてい る。 ★写真 本堂までの回路沿いや池の周りが鮮やか な緋色に・・・ |
“おく山の岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光 見る時なくて” (古今集・秋下/藤原関雄 ) 真紹僧都の徳をしたって自分の別荘を寄進した 藤原関雄が詠んだ歌。 平安時代初期に寺を建立したのが弘法大師の 弟子のひとりである真紹僧都(しんしょうそうず 797〜873)であり「仏法は人によって生かされる、 従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬とな る人づくりの修練道場であらしめたい」と自ら語っ た創建の目的。その理想に従って、この寺の永い 歴史の中か ら名僧・高僧を世に輩出している。 ことに高名な平安時代中期の永観律師(1033〜 1111) が「永観堂」の名の由来となった人物。 彼は自ら「念仏宗永観」と名乗られるほど弥陀の 救いを信じ、念仏信仰の第一人者として念仏の 道理に従って、禅林寺の寺域に施療院(せりょう いん)を建て窮乏する人々の救済活動に尽力した という。 鎌倉時代になって、この寺が浄土宗西山派禅林寺 派の総本山となったのも、律師の念仏行が種となっ たものである。室町期になると政情は常に不安定で あり応仁の乱等の兵火によって破壊しつくし、寺域も かなり狭められたが明応永正の頃から今日の美観 の基礎が築かれた。現在の堂宇はその後に再建さ れたものだが、釈迦堂、祖師堂、開山堂、本堂、 などが居並ぶ伽藍は、当時の壮大な大寺院の 雰囲気を今に伝えている。 |
本堂までの回路沿い、また池に写る紅葉は 鮮やかでした。陽射しを浴びた赤というより は橙色と山吹色のコントラストがとても綺麗 で・・・・なんとも言えませんでした。 見返り阿弥陀は不思議な伝承があり永観律 師が一心不乱に念仏行道をしたところ阿弥陀 仏が動き出し壇上から下り一緒に行道を初め 律師に後ろを振り返り「永観、遅し!」と叱った そうです。 前で手を合わせ、横にまわり手を合わせ見上 げれば今にも動き出しそう・・・・・・・・・・ とても美しい阿弥陀像でした。 ![]() |
鷲峰山 高台寺 (臨済宗 建仁寺派) 方丈、書院、開山堂、霊屋(おたまや)・・。 高台寺の境内にならぶ伽藍は、そのどれも が桃山時代を代表する寺院建築。華麗な 蒔絵が施された絢爛豪華な境内は「高台寺 蒔絵」の名で知られる日本の漆工芸美術の 頂点。訪れる人々はみな、この美しさに見と れてしまうとか。さすが派手好みで知られた 豊臣秀吉の霊を慰める寺だけのことはある。 ★写真 開山堂 重文 高台寺第一住持、三江紹益禅師(1572〜 1650)を祀る塔所である。左右壇上には 木下家定(ねねの兄)雲照院(家定の妻) 等の像も安置されている。礼堂部中央の 彩色天井には北政所の御所車の天井、 前方の格子天井には秀吉が使った御船の 天井が用いられている。 観月台 重文 檜皮葺きの四本柱の建物であり、三方に 唐破風をつけた屋根の下から観月するた めの建物である。 臥龍廊(がりょうろう) 開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ階段で龍の 背に似ている所から名付けられた。霊屋と は秀吉と北政所をお祀りしている所であり、 厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置し ている。須屋壇や厨子には、華麗な蒔絵が 施され世に高台寺蒔絵と称され桃山時代の 漆工芸美術の粋を集めている。 ★写真(秋) 傘亭・時雨亭 重文 利休の意匠による茶席であり伏見から移建 したものである。傘亭は竹が放射線状に組 まれ、カラカサを開けたようにみえることから その名があり、正式には安閑窟と呼ばれる。 時雨亭とは土間廊下でつながっている。 ★写真(夏) 遺芳庵(いほうあん) 重文 灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席であり、 鬼瓦席と共に高台寺を代表する茶席として 知られている。 |
東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の 東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい豊臣 秀吉死後、その菩提を弔うために秀吉夫人の 北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が 慶長 11年(1606)開創した寺である。 寛永元年7月(1624)建仁寺の三江和尚を開山 としてむかえ、高台寺と号した。 造営の際して、徳川家康は当時の政治的配慮か ら多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗 をきわめたという。 しかし寛政元年(1789)以後、たびたびの火災に あって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧 持仏堂の開山堂と霊屋(おたまや)、傘亭、時雨亭、 表門、観月台等で現在国の重要文化財に指定さ れている。 尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に 従一位に叙せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇 より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日76才 で亡くなられた。 |
肝心な「高台寺蒔絵」は拝見出来ませんでし たが、じっくりと紅葉を堪能できました。 また臥龍廊(がりょうろう)は龍の背中を思わ せるほど独特な造りで階段を上へ上へまるで 龍の体中を歩いているような気さえしました。 少々オーバーですが? ![]() |
青蓮院 天台宗 延暦寺山門跡として名高い名刹。 かつて、上皇の仮御所として使われていた 頃の風情が今も境内には色濃く残っている。 国宝の不動明王画像を初め貴重な寺宝も 多い。 庭は粟田山の山裾の自然を巧みに利用して 作られた名作庭家と知られる江戸時代に名 高い小堀遠州の作。 ★写真 門跡 ★写真 宸殿内 ★写真 青不動明王 ★写真 親鸞聖人像 ★写真 好文亭 |
天台宗の祖・最澄は比叡山の山上に僧侶の主坊を 数多く作ったが、その一つだった青蓮坊がこの寺の 起源。最澄、慈覚大師、案慧など代々の延暦寺の 中心人物の住居として使われたという。 平安時代末期には洛東の現在地に移され皇族が 代々の住職を務める門跡寺院となった。 平安時代から鎌倉時代の初期にかけては、ここの 第三世門主・慈鎮(じちん)が天台主座主を4度も 務めるなどたい隆盛を極めたが、応仁の乱により 寺は荒廃する。 青蓮院がかつての栄華を取り戻したのは徳川幕府 の尽力によって、殿舎の造営もすすめられ、東福寺 院の宮殿を移築して宸殿も造られた。 また、江戸時代の中期に御所が火災に遭って炎上 した時には、ここが後桜町上皇の仮御所として利用 された。平成になって火災で焼失、庭園内に完全 修理復元された好文亭は、仮御所時代に上皇の 学問所として造られたもの。 |
紅葉が綺麗な庭園や館内には狩野派による 襖絵など国宝、重要文化財があり、天皇陛下 皇后様の写真もいくつか飾られていて、 かつて後桜町上皇(ござくらまちじょうこう 1740.9.23誕生〜1813.12.24崩御、 最後の女性天皇となった)の仮御所「粟田 御所」として使われた時代の厳粛な雰囲気が あり何時になく背筋をぴんと伸ばし姿勢を正 す自分がそこにいました。 ![]() |
醍醐寺 真言宗 秀吉が盛大な花見を開いたところで有名 な醍醐寺は、、真言宗醍醐寺派の総本山 として西国三十三霊場の第11番札所で 巡礼の人の姿が絶えない。 山科盆地の東南にそびえる醍醐山上 「上醍醐」と山麓山下の「下醍醐」とに大別 され、それらを総称して醍醐寺と呼ぶ。 醍醐寺山のほぼ全域にわたる広大な寺域 には、薬師堂や五重塔など国宝を含む80 もの堂塔伽藍がならぶ。 ★写真 五重塔 京都府最古の建造物 (国宝) ★写真 弁天堂 |
真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる聖法 (しょうほう)理源大師(りげん)は、貞観(じょう がん)16年(874)に草庵を結び准胝(じゅんてい) ・如意輪(にょいりん)の両観音像を彫刻し堂宇に 安置した。これが醍醐寺の始まりである。 開創後、延喜年間(901〜923)には聖法を信頼した 醍醐天皇、朱雀、村上、の三帝の深い帰依によっ て、下醍醐に釈迦堂、上醍醐に薬師堂などが建立 された。天暦5年(951)には下醍醐に五重塔が完 成。山上山下にまたがる大伽藍が整った。 応仁の乱などの兵火により大半のが焼失してしま う。今日のように繁栄するのは、安土桃山時代に なってからだ。 慶長3年(1598)、豊臣秀吉が約1300名を従えて 催した花見、世に言う「醍醐の花見」が再興の きっかけとなる。秀吉は吉野山からおよそ700本 もの桜を移築。下醍醐にある三宝院は、秀吉が 構想を立て設計したといわれる。江戸時代には、 徳川家の保護により4800石の寺領を受ける。 明治維新の際に大半の子院が廃されたが開山 以来、日本仏教史上枢要な位置を占め伝えられ た多くは国の国宝・重要文化財に指定されており 平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 |
春の桜「醍醐の桜」でなく「醍醐の紅葉」を 堪能してまいりました。 なかでも弁天堂は池にその姿と紅葉とを写 し美しくしさに思わず「わー綺麗!」と大声を 出してしまいました。 池の畔のお茶屋でお抹茶を戴きながらしば らく眺め時の経つのも忘れて心身ともに癒 されました。 ![]() |
満福寺 宇治の禅寺 黄檗宗 宇治市の北、宇治川の東側に位置する。 落ち着いた雰囲気の寺で臨済宗、曹洞宗 とならぶ禅宗三派のひとつ、黄檗宗(おうば くしゅう)の大本山だ。回路をめぐらした境内 に中国の禅寺を彷彿させる独特な建築様式 の伽藍。中国音での読経や椅子での食事 など行法・作法にも中国の禅宗様式を残し ている。 |
江戸時代初期に中国から渡米した高僧・隠元が 万治3年(1660)、江戸幕府より後水尾天皇の 生母・中和門院の宇治別邸を寺地として与えら れたのがはじまり。 開祖の隠元は焼く9万坪の広大な寺域に中国の 禅寺様式と同様に伽藍を配置し、山号も寺号も 「黄檗山満福寺」と中国の満幅寺にならって名 づけた。 |
朝一番まだ誰もいない満福寺。 三門に入り真正面の天王殿に向かう。 弥勒菩薩(布袋)座像を中心とする中国 様式のお寺。 お寺は中国の建築様式で大変エキゾ チックでした。 高僧・隠元が「インゲン豆」を日本に普及 させたそうです。 普茶料理があるそうです。 次回は是非予約し食してみたいものです。 ![]() |