◆外交官内田定槌(さだつち)の私邸
1910年(明治43年)渋谷の南平台に建てられ、明治から大正にかけての私邸でそこから「外交官の家」の名がある。内田定槌の孫にあたる宮入氏から建物を残したい強い願いもあり寄贈を受け横浜市がここへ移築復元した。工事は1995年(平成7年)から1997年(平成9年)、完成と同時に国の重要文化財の指定を受けている。
◆外交官 内田定槌
福岡県に生まれ、1889年(明治22年)に東京帝国大学を卒業、外務省に入省し上海、ソウルの勤務を経て、1896年(明治29年)にニューヨークに着任、1902年(明治35年)からはニューヨーク総領事を務め、ポーツマス条約締結のために渡米した小村寿太郎全権大使を支援。その後はブラジル、アルゼンチン、デンマークなどの公使を歴任、1920年(大正9年)から3年ほどトルコに勤務し、1924年(大正13年)帰国後、退官している。
◆内田定槌の依頼を受け設計したガーディナー
1857年、アメリカ、セントルイスに生まれ、1880年(明治13年)にアメリカ聖公会から派遣されて来日している。ウィリアムズ主教が開校した立教学校の教師を務めその校長にも就任している。後の立教大学である。
◆建築学の素養のあったガーディナー
1891年(明治24年)に建築家としての活動を開始、各地の教会をはじめとしてさまざまな建築を手がけているが多くは関東大震災などによって失われ、現存するものはわずかである。「外交官の家」は、日光市の日光真光教会や京都市の聖アグネス教会などとともに貴重な遺産である。
◆木造二階建てのアメリカン・ビクトリア様式
ビクトリア様式は重厚な豪華さを旨としたバロック様式の流れを汲むものであるらしく、19世紀後半に英米で流行した建築様式だという。その中でも特にアメリカのものを「アメリカン・ビクトリア様式」と呼ぶそうです。
渋谷に建っていた頃には和館も併設されていたらしいが、移築復元に当たってはこの洋館部分のみで併設されていた和館のあった場所は、今は入館口になっている。